人気ブログランキング | 話題のタグを見る

頭ん中の整理整頓  


by kiminoseki
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

大暗渠

「最高裁には、自ら判決を下してほしかった」。平成11年4月の山口県光市母子殺人事件の遺族、本村洋さん(30)は20日、最高裁判決後の記者会見で不満をこぼした。事件から7年以上も被告(25)=事件当時(18)=に極刑を望み続けた本村さんだったが、最高裁が出した判断は広島高裁への審理差し戻し。刑が確定するまでには、なお時間がかかることが予想される。本村さんは「裁判の迅速化が叫ばれる中、納得できない」と語った。(産経)

この事件を契機にあらためて、死刑制度は必要であると痛感しました。

何の怨恨もない主婦を計画的に強姦し、ついでに殺害して、その生後11ヶ月の娘まで殺したわけですから、構成要件該当行為の認定に間違いないなら、余裕で死刑だと思います。
 
死刑のデメリットは「事実誤認があった場合、取り返しがつかない」のだと思います。「犯罪者の人権?」他人の人権守ってから言いましょう、そういう寝言は。

捜査も裁判も人間のやる事ですからミスを0にできない、という事で、相変わらずリスクとしては存在します。ただし、本件の場合にはこのリスクはありません。

別に「無期懲役にならなかった」わけではなく、今回のは控訴審判決を棄却しただけです。もっとも「死刑を回避する十分な理由がない」と言っていますから、控訴審で「十分、審理した上で、酌量の余地がない事を異論の出る余地なく明らかにした上で、死刑にしろ」と言っているのと同じですが。

ここから刑事裁判の話に限ります。日本の裁判制度は、第一審→控訴審→上告審と三審制度をとっています。判決に不服がある場合に控訴、上告できるわけですが、別に「裁判をやり直せるわけではありません」。同じ裁判を3度もやり直すわけではなく、それぞれ裁判としての性質が違うのですね。

第一審は、当然の事ながら事実関係について審理されます。弁護士と検察官がやりあうのもここです。という事で、第一審で事実関係の洗い出しは完了します。

控訴審では、事実関係の洗い出しは行われません。では、何をするかというと、第一審で明らかになった事実関係に基づいて、第一審が出した判決が適当であるかどうかの判断を行うわけです。例えば、不当な捜査によって提出された証拠を採用していたりとか、量刑が適当か不適当か、そのあたりの審理を行うわけです。

ここで、もし第一審でやるべき「事実関係の洗い出し」が不十分と判断されれば、差し戻されます。つまり、第一審のやるべき仕事が不十分なら「第一審をやり直せ」と命令するわけですね。
 
そして、事実関係の洗い出しが十分だけど、判決が不適当という場合に、改めて判決を言い渡す事をするわけです。

上告審を扱うのは最高裁判所です。最高裁判所の仕事は、憲法判断と下位裁判所の監視です。ですので、控訴審以下で過去の判例違反などがあれば、判決を出しなおす場合もあります。

そして、控訴審が当然やっているべき事をやっていない場合、「控訴審をやり直せ」と命令するわけです。

今回、第一審では「以下の理由を考慮して、無期懲役」と判決を出しました。

・殺害行為に計画性がないこと
・前科がない
・発育途上にある
・不十分ながら反省の情が芽生えている

控訴審では「その理由は納得がいくものなので、控訴理由なし」と判決を出しました。裁判をやり直したわけではなく、第一審の判決を正当と認めたわけです。

そして、上告審では「控訴理由が十分かどうか十分に審理してないので、差し戻し」という判決を出したわけですね。

判決を読むと、最高裁判所としては「死刑が適当」と考えている事がわかります。

・強姦目的を遂げるために殺害行為を冷徹に利用しており、特に被告に有利な事情とは言えない
・更生の可能性についても「罪の深刻さと向き合っていると認めることは困難
・18歳になって間もないという点も、死刑を回避すべき決定的な事情とは言えない

上のように言っているという事は「第一審が死刑ではなく無期懲役と判断した(そして、控訴審がそれを認めた)理由について、十分な審理をしていないから、死刑ではなく無期懲役なんて判決が出たんじゃないのか。これは控訴審の仕事を十分に果たしていないからやり直せ」という事ですね。

その上で「きちんと審理したら、死刑って結論になると思うよ、最高裁としては」と付け加えているわけです。

というわけで、遺族の気持ちに動かされたとかではまったくなく、最高裁は自身の仕事を司法としてキッチリと果たしたんです、という結論です。
 
決して、死刑判決を自ら出す事に臆病になったわけでも、怠慢なわけでもないですよね。

====

「もう一度裁判があるなら、その機会を大切にしたい」。広島拘置所にいる被告の元少年(25)は20日夕、接見した知人から判決を知らされ、そう語ったという。
「自分のしたことは死んでも償えることではないし、謝罪しても許されることではない」。判決前の接見で、被告は話した。それでも「たとえ償いきれなくても、生きていることが許されるのなら、償いの気持ちを表し続けていきたい」と思っているという。
母親が自宅で自殺したのは中1の秋。高校時代には、仲間からズボンのポケットに花火を突っ込まれてやけどを負った。事件を起こしたのは卒業から2週間後。「ずっと、心の奥底で友達や本当の家族を探していたように思う」。知人への最近の手紙には、そんな言葉もあった。
拘置所で知り合った男性への手紙に、「ありゃーちょーしづいてる」と、遺族を中傷する言葉を書いた。裁判の過程で発覚し「全く反省していない」と強い非難を浴びたが、2審判決は「知り合った相手のふざけた手紙に触発された面もある」とも指摘した。
(毎日)

最高裁が控訴審に差し戻した事で、おそらく控訴審は死刑の判決を改めて出す事でしょう。最高裁の今回の判決は、要約すると「死刑を避ける理由として挙げたもの、全部、きちんと審理した? ちゃんと審理したら、最高裁としては死刑になると思うんだけど、ちゃんと審理してないっしょ。だから、やりなおし。ちゃんと審理して、酌量の余地がない事を明確にしてから、死刑にしなさい」と言っているわけですね。

「殺すつもりはなくっても、強姦は計画的にやってるわけで、その上、あっさり殺してるんだから、そんなの酌量の余地はないよ」って事を判例として明確にする事で、今後の抑止力にしたい、というような意図も含んでいるのではないかと思います。

というわけで、最高裁は司法機関としてキチンと機能しています。この件に関しては心配ありません。

という事で、今度は「死刑にしろ」とか「なんだあの弁護士」と言っている世論について、考えてみます。

まず司法制度の建前として、判決が確定するまでは被告(被疑者)であって犯人ではありません。何人も裁判による正式な手続きを経ずして犯人とはされませんから、犯人かどうかは「わからない」というのが建前です。
 
また、弁護士ですが、裁判のシステムは、原告である検察と、被告代理人である弁護士が、とことんやりあった上で、事実関係を明らかにしていくシステムです。もっと言えば、弁護士があの手この手を尽くして無罪を勝ち取ったり、量刑を軽くしようとして、なお、それでも判決として出る分の量刑は間違いなかろう、という事で刑を執行するシステムですね。
 
である以上、弁護士は、被告の利益を最大限に勝ち取るためにあの手この手を尽くしてもらわないと困ります。「罪を憎んで人を憎まず」なんて発言は、反発買うのはわかりきっているわけで、そんな発言をしてしまうのは迂闊だと思いますが、それは単に能力が低いという話であって、その事が、その弁護士の人格を否定するものではありません。

これらのシステムは全て国民を守るためにあるのでしょう。
 
「死刑にしろ」。いいじゃないですか。 「あの弁護士は追放しろ」。いいじゃないですか。
 
こういう声が数集まれば、それが世論になります。無視すべき意見は世間からも無視されるはずです。世論は、国民の大多数が何を望んでいるかを専門家に訴える効果があります。

その世論を「参考」にしつつ、専門家は手続きを行い「決定」すればいいわけです。

もちろん、世論が言ってるから死刑、なぞは問題外です。
 
死刑にするからには相応の基準が必要です。その基準がないなら、基準(判例)作りからはじめねばなりません。その時の世論の気分に流されて、量刑がいい加減になってはいけないからです。
 
弁護士が世論にバッシングされていても、それが正当な職務なのであれば、司法制度は世論に逆らっても庇うべきです。この件の弁護士は、裁判を欠席するなどしており、さすがにそれは裁判制度からも外れてるんじゃないか、と思いますが。

素人にわからない落とし穴を理解し、世論に迎合する事なく、職務を遂行するのが専門家です。
 
ただし、国民の望む所と方向性を知り、大局においてはそれに従う必要もまたあるため、外野としての世論は必要だと思います。
 
ようは国民は「被害者感情があまりに無視されている」とか「加害者人権が過剰に保護されている」などの「不公平感」を感じて、不満を言っているわけです。
 
ですから、その不公平感をなくし、犯した罪に相応しい量刑が与えられるような方向性に向かえばいいわけです。これは司法だけでなく立法の問題でもあると思います。
 
そして、ではどのようにそれをやっていくか、については専門家たる人たちが手法を熟考した上で選択していけばいい。世論は概ね熱しやすく、短絡でリスクも大きい方向を望みます。そんな世論に流される事なく、手法を取捨選択していけばいいわけです。

そして、その方向性を示すための世論を作るのが、素人の個々の声です。的外れな事を言おうが、そんなものは他の人が無視すればいいだけの話です。
 
個々の素人が声を出す事で世論が形成されるのですから、無責任だろうが無知だろうが、思う所を素直に吐露し、それを他人に伝達する事は世論形成に必須の作業です。
 
それを抑制する方が誤っていると思います。その上で、素人の意見なぞは鵜呑みにせず、その望む方向を汲み取って専門家が事に当たっていけばよい、と思います。

今回の事件では「犯人を死刑に」という声を受けて、「社会正義として死刑が相当」となりました。では、その死刑の根拠は、という部分を突き詰めるために「裁判を差し戻しました」
 
ですので「最高裁でとっとと死刑に」という世論は、たとえ多数であっても、結果としてはその多数の利益を損なうので、専門家たる最高裁はこれを受け入れてはいけないわけです。既存のルールを逸脱する事のデメリットが大きすぎるからですね。

今はW杯だけなわで、世間では「ジーコの采配」や「柳沢の決定力のなさ」に対する批判が飛び交っています。私も含めて、彼らはみんな素人であってプロではない。ジーコも、私たちには見えない、必然的な理由でそうしているかもしれないわけです。
 
ただ、それを「だったら監督をやってみろ」というような意見で封じるのは誤りだと思います。
 
素人の意見が世論を形成します。その不満のほとんどは「勝つ事」で解消されます。別に「柳沢を使う事」そのものに不満があるわけでも、「中村が右サイドにいる事」に不満があるわけでもなく、勝つためにそれが必要だというのなら、まったくもって受け入れられる話なのです。
 
批判の多さは、勝つ事への渇望を専門家に伝えます。専門家はそれを受けて、勝つための最善の努力をすればいいのです。その手法は、何でもいい。

素人が方向性の決定までもを専門家任せにし、何も言わない状態は、極めてまずいでしょう。
 
素人は無知で無責任でも、思った事を素直に吐露すべきだと考えています。
 
# by kiminoseki | 2006-06-21 21:31